授業を持ち帰る発想はうまくいかない
2015/11/5付のリセマム記事
ドコモと福岡市教委、授業や自宅学習にタブレット活用…ICT共同研究
NTTドコモ九州支社と福岡市教育委員会は、2015年10月から2016年3月までの6か月間、ICTを利活用した教育実証研究を共同で実施すると発表した。中学校に学習用タブレットを配備し、授業や校外学習、持ち帰り学習などにおいて活用。成果や最適な環境などを検証するという。
総務省ICTドリームスクール実践モデルの一事業なわけですが、これはモデルとして筋が悪いと思っています。その理由は主に2つ。
ICTの一般的利用機会を高めないと、
用途限定利用も増えない
これは常々ICT脱教具論で述べていることですが、日本の教育情報化20年の停滞の最大の理由は、本来、日常利用→授業活用とデザインすべきところを、学習者の日常を切り捨てて授業設計ピンポイントで進めてきたところにあります。
もし、ICTを毎日使う環境であれば、家庭学習にも自然に波及浸透する可能性が高くなりますが、現状の「特定授業のピンポイントICT活用」レベルで、より利用時間の長い家庭学習利用に踏み切ろうとするのは、よほど実施者側に勇気があるか、もしくは丸投げ無責任なのか、のどちらかでしょう。
教員の立場で考えてみれば、授業で10分程度しか「制御」出来ないタブレットを、自分の目の届かない家庭で数時間使わせるというのは常識的には考えられないことです(だから教具論ではダメなのですが)。
学校が家庭学習を支配するのは
倫理と持続性の問題がある
おそらくモデルの構想者は、宿題を出すくらいの感覚でクラウド教育サービスを考えたのでしょうが、このクラウドは教える側の理屈(と妄想)があるだけで、学ぶ側の主体性などどこにもありません。
家庭学習の主体と責任は家庭側にあるわけですし、学習者の学習行為はあくまで本人の履歴であって、インフォームドコンセント(つまり用途と還元される効果の説明)なしに学校が勝手に踏み込んで管理してよいものでもありません。この辺は「デジタル教科書(ガジェット)5原則」の「子どもの領分」として書いてある通りです。
家庭学習の支配が大きくなれば、当然、それに伴った責任と教員側稼働が大きくなります。たとえば、課題強制されても、それが学習者にとって適切でない場合がままあるわけですが、パフォーマンスに良い結果を与えない場合、今度は学校側が責められることになります。手書きでノートに花まるを書く必要はなくなりますが、家庭学習の成果に対して、フィードバックをする稼働は増えます。学校側には持続的にそれらを運用する覚悟はあるでしょうか?
僕はこういう無邪気なモデルが出てくると小説1984を想像してぞっとするので、「少なくとも教育者の発想じゃないな」と思う訳ですが、誰も反対しないのが不思議でなりません。