試薬や魔法のようなICT利活用技法論から脱却しよう

最近PuenteduraのSAMRモデルがちょっとした話題だ。組み立てとしては悪くないが、日本の授業にこれを適用するのはちょっと無理がある。少なくともMRレベルはカリキュラムレベルに踏み込むもので、授業技法として解釈するとミスリードしそうだ。

デジタル教科書批判を調べていて見つけたブログ記事。フィンランドの授業が意外とアナログというのは自分も実際感じた事。でもICT利活用段階についての見解は筆者とは逆。もっとも、意外を納得に変えるまで何度も訪れることになったわけだが。
http://blog.goo.ne.jp/snrstudent/e/ffaa924175a9de501a5f4c099c760842

話は前述SAMRモデルと関係する。僕は「ICTは所詮道具である」という言葉が嫌いだ。文意に意図的な矮小化と軽蔑が含まれるからだ。カリキュラムや単元を所与条件にしてICTを技法レベルに置くと、ICTを試薬のように扱わねばならない。スゴイ使い方で教育効果を産むことが要求されてしまう。

授業研究の反省会なんぞを聞いてると、ICTのスゴイ使い方はさらに短時間かつピンポイントであることが求められる。それ以外は使っても「効果がないから」。技法レベルで過去見受けられたような使い方は「新規性」がないと批判される。スゴイ使い方は試薬どころか魔法レベルでないといけないらしい。

試薬的ICT利活用は無理難題だ。普段ICTを使わせないから操作は不慣れで機転や応用が利かない。カリキュラムや単元は所与条件で短時間場面限定、とすれば、教材提示インパクトで関心を惹くか、具体的手続きを与えた単純作業か、反復ドリルで暗記習熟を狙うか、くらいしか手がない。SAMRのSAレベルだ。

子どもは場面統制されて受け身態勢になり、手続き的短時間作業では十分な思考を得ることが出来ず、学習制御では指示課題を淡々こなす事になる。結果得られるのは興味関心と知識習得の向上。ICT利活用推進者以外から「ICT使わなくても出来る」「ICTならではの教育効果がない」批判が繰り返される。

短時間で細切れ作業をさせるから「せわしなく、授業として浅い」印象を与えるし、ドリルに没頭する様子を見れば「依存が心配だ」とか「ITに支配されている」とか言い出す。そんな場面は嫌と言うほど見てきた。

原因ははっきりしている。ICTを技法レベルに押し込めた上に、魔法のごとき効果を求める非現実的要求が当たり前になっているからだ。新規性のある概念・機材・設備・内容のアイデアを技法レベルで食い散らかした結果、過去のアイデアは、いずれも十分結果を得る前に用済み烙印を押されて葬り去られてしまう。

たとえば、先のブログ記事は「ワープロ機能として子ども達に使わせていただけ」とスルーしている。ワープロは枯れたツールでなんの新規性もないからだ。ただ、フィンランドの使い方は日本とは違う。小2でも手書きでA4が埋まる文章を書き、手書きとワープロを行き来しつつ構造的文章を組み立てる。

日本の学校でワープロを使わせれば、文章そっちのけで文字飾り・文字揃えで凝り出すが、実は100字を超える文章構成も困難だ。表面的操作を知っているのと、文章の組み立てツールとして使うのでは知的生産の思考レベルが異なる。技法レベルで表面的にミスリードすると肝心な所を見落としてしまう。

ICTを試薬のようなピンポイント技法として理解するのは間違いだ。ICTは人の知的活動に関わるものだから、日常的かつ持続的な知的「一般的方略」でなければならない。それは授業限定の技法というよりむしろ戦略やライフスタイルというレベルだ。そこには必ずしも新規性は必要ないかもしれない。

ICTの「一般方略化」によって学習者の機転や応用が利くようになれば、知的生産レベルは向上し、より高次のステージの学習が可能になる。それこそが21世紀型スキルとして求められているものではないか。真面目に追求すれば、単元や授業の枠組みを変えてしまうようなインパクトを持つだろう。

SAMRモデルでいえばMRはそのくらいの高みにある。MRを目指すなら授業枠を超えた日常的活用とカリキュラムの見直しが求められる。21世紀型スキルを前提に実践を組み立てるのが容易でない事は承知しているが、45分授業に技法レベルで押し込んでそれらを標榜するのはやっぱり無理がある。

SAMRモデルを真面目に活かすには、そろそろ試薬的な技法レベルのICT利活用を脱却して、根本的な議論に立ち返りたいところだ。

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