我々を支配する知識注入主義

教育方法論の講義では、代表的な教授・学習のモデルを扱うのだが、「知識注入主義」をこれほど分かり易く表わしたイラストは見たことがない。これは1900年代に発表された「2000年のフランスの未来」の1シーン。他のカードにはジュール・ベルヌの小説ばりに面白いものがあるのに、 この学校シーンのイラストだけは見てぞっとする。ヘッドセットから知識を注入されて虚ろになっている子ども達が未来の理想とは…

さて、我々がどれだけ知識注入主義に毒されているか。たとえば、学生に学習方法の工夫・アイデアをまとめる課題を出すと、9割以上は習得・暗記・気分転換に関する項目で占められる。与えられた課題の処理、単純で退屈な理解・暗記の繰り返しにいかに耐えるか、という話ばかり。

例えば、板書をそのままノートせずに重要部分を自分でハイライトするとか、探索した多量の情報を取捨選択するとか、要約生成するとか、要素を再構成して編集し直すとか、俯瞰的なトピックマップを作るとか、上位の思考プロセスを要する項目は滅多に出てこない。

つまり、要求する側が学習に単純な思考プロセスしか求めないから、学ぶ事そのものに動機付けを保てない構造を作っている。わざと絶望・敬遠させるよう条件付けしているかもしれない。教育の意義として「くだらない事にも堪え忍ぶことの重要性云々」を説き始めたら、もはや末期症状だ。

 

困った事に、我々自身がそういった知識注入主義的な学習にどっぷり浸かって育ってきたから、そうした習慣が骨の髄まで染みついている。急に新しい学習概念や方法が紹介されても、無自覚のうちに古いやり方に合わせてしまう。

自分達が満足にやった事のない課題を、子どもに説明したり要求したりするのは困難だ。例えば、21世紀型スキルの育成が、単なる言語活動の充実→とって付けたようなピンポイントの話し合い活動に矮小化されてしまうのも、結局は我々の圧倒的な経験と想像力の不足が原因なのだろう。

もし、話し合いを本気で構成するなら、前もって各自主張要点を固めてくるとか、アジェンダ作るとか、ログを取るとか、ホワイトボードに可視化するとか、ゴールに対しての進捗を確かめるとか、メタなアプローチが必要だ。3分とか10分程度で思いつきの意見を言わせたところで、そういう工夫は出てこない。

とって付けたような話し合い活動で結論の決まっている課題を与えておいて、教員の伏線読みを期待するだけなら、長い話し合いは子どもをダラけさせてしまう、余計な時間浪費のように映るのだろう。そんな活動は、単に教員と学習者との1対多問答形式の形を変えただけに過ぎないのだが、子どもがワイワイと話しているので、見た目に簡単に騙される。

授業中の形だけの話し合い活動は、グループワークのアイデア集積・推論・創発に期待しないから、先に述べたメタアプローチになど着目する理由がない。結局、教員の設定した結論しか残す必要がないから、誰もログを取ろうとしない。授業支援システムも見栄えよく電子黒板に意見集約しただけで、結果データを授業外に持ち出せない

 

知識注入主義に毒されていることに無自覚のまま、見た目だけを変えたものが「教育の革新」とか銘打って量産される。背景に学びに対する絶望や敬遠があるから、与える側の都合にしか寄り添えない。学ぶ側に対しては、シュガーコートや効率化のメリットしか強調出来なくなる。授業ニーズも応答するシステムも中途半端なのだから、十分な効果など望めるわけがないし、批判にも簡単に足をすくわれる。

テクノロジーをテコにして教育に革新を求める人は、暗黙のうちに支配されている学習観に気付いておかないと、結局、現状の教育課題をよりグロテスクにした荒療治のソリューションに行き着くだろう。

教育の現場で対応を迫られている側も教育課題の前提に横たわっている学習観を自覚しておかないと、目先だけ斬新な機器や表面的に派手な技法に簡単に騙されたり、時代や学習者からの要請を見誤ったりしてしまうだろう。

そして何より最悪なのは、粗悪な活動を通じて、子ども達は「答えは最初から決まっているのだ。自分達の思いつきやアイデアをいくら集めても価値などないのだ。」ということを反面教師的に学んでしまう。結局、我々のやっていることは、学習への絶望の再生産に過ぎないのではないか。

 

支配されている素朴な学習観から自由になるには、それらを言語化して他のアイデアと相対化するプロセスが必要だ。世の中の学習観は決してひとつではない。

 

 注 シュガーコート:苦い薬に施す糖衣のこと。つまらない学習内容にキャラクターなどの視聴覚要素やゲーム要素を付加して、子どもの興味関心を惹き付けようとするもの。

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