教育ICT常識の嘘 #1「まずコンテンツが必要だ」
「教育ICTには教材コンテンツが必要」は教育ICTに仕掛けられたブラックホールの罠かもしれない。与えるコンテンツにこだわるほど、予算や稼働は際限なく吸い込まれるが、学習の形態が変わらない限り、顕著な教育成果は得られない。さらに、コンテンツへの依存は教員や学校の立場を危うくする。
一斉授業×ICT×提示コンテンツは素人目にも分かりやすいし、教員側は教え方を変える必要がないから導入も比較的容易だ。しかし、学習者側から見れば黒板でも電子黒板でも情報が手元にないから好き勝手出来ない。一方的に知識を押し付けられる枠組みは同じ。理解・関心度の向上は程度の問題だ。
一斉授業で与えるコンテンツは、現状でも十分なバリエーションがある。従来通り板書に語り中心でもよし、教科書や資料を実物投影機で見せてもよし、インターネットのリソースだって使えるのに、教科書準拠、教員利便性、コンテンツ・リッチ、興味関心喚起のために支払う対価としては妥当だろうか。
一斉授業の教材選択では、学習者に合わせた知識の「ゲートキーパー」が教員に期待されるから、様々なソースを構成するプロセスが教材研究として重要だ。しかし、教科書準拠や省力化・利便性を理由に専用コンテンツを安直に使えば、韓国で「クリック先生」と揶揄されているような事態が生じる。
一斉授業用の提示コンテンツをどんなに凝っても、一斉授業である限り教育効果はほとんど変わらない。一方、学習者用端末を用いた「学習の個別化」で学習形態を変えれば、最適化による効果は期待出来るが、膨大なコンテンツと最適化の処方は教員個人が制御可能な範囲を簡単に超えてしまう。
例えばICTによる学習の個別化は、単位時間当たりの情報扱い量を数倍に高めるデジタル・シフトの要因が大きい。子どもは生活の中でゲームのアナロジーに慣れ親しんでいるから、娯楽的・探索的な情報消費に関してはきわめて高い能力を獲得している。その能力を学習に転移出来れば効果は絶大だ。
だが、問題となるのはそのための中身だ。古い話だが、90年代初頭のコンピュータ教育実践は教員が全て自作するのが普通だった。研究授業で与えるための教材プログラムを半年以上かけてBASICで組むのが教材研究。血のにじむ努力で教材を作っても、授業で子どもが扱えるのはせいぜい5分程度だ。
すでにファミコン全盛の時代、ゲームに慣れている子どもはあっという間に教材を消費する。素人の作る(パワポ風)紙芝居型や選択肢◯×クイズ程度は、仕掛けが単純過ぎてすぐに飽きられてしまう。そんな冗談のような教材を「これぞ未来の教育だ、理解と関心が高まる」とか言っていたのは誰だったか。
つまり、学習の個別化は圧倒的な情報量と最適化システムを必要とし、コンテンツ提供業者への依存を高めるので、教育目標と知識そのものを与える役割を教員から奪う。学習効果は飛躍的に上がるかもしれないが、逆に、教員の位置付けや、時間と場所を無理矢理共有させる学校の意義が問われるだろう。
だから、コンテンツはブラックホールの罠なのだ。実は、この発想はパパートが批判する教示主義(instructionism)そのものであり、コンテンツへの執着は教示主義への囚われそのものである。教示主義は学習者の潜在的な探索学習能力を埋没させ、理解や記憶といった単純な思考プロセスと受動的態度に拘泥する。
これに対して構築主義(constructionism)は、学習者がダイナミックに知識を再構成する能動性に注目する。知識とは単に伝達・蓄積されるコモディティではなく、常に個人的な経験と記憶に裏打ちされたオリジナルであるという考えだ。とすれば、すでにコモディティ化された教材の流通自体には学習者側の価値はない。
コモディティ化された教材情報はたいがい複数の手段で手に入る。むしろ個人が知識を生み出すプロセス・ツール・蓄積にこそ意義があると考えれば、授業のICT利活用でまず必要なのは、学習者自身がアイデアを形にするためのツールや柔軟な学習環境構成そのものだ、ということになるだろう。
知識を構成するのは学習者側のダイナミズムである、という考えは、アクティブ・ラーニングのコンセプトにもつながる。たとえば、教えられた通りに一字一句違わずノートを取るのではなく、自分が理解したようにノートをデザインして、アーカイヴするという考えだ。授業の構成も当然変わるだろう。
教育ICTのコンテンツへの執着は、教示主義への囚われを強化し、十分でない予算や稼働をブラックホールのように際限なく吸い尽くしてしまう。我々は賢明にならねばならない。すでにコモディティ化された教材が世間に溢れているのだから、ICTはむしろ学習者寄りのツールと学びの環境構成に注力すべきだ。