子どもを【見捨てる】とは
学習者は、自身のゴールも現状も課題も解決の道筋も【よく分からない】ところからスタートする。適切にセルフモニタリング出来ないから、教授者側にある程度依存せざるを得ない。学習場面のさまざまな課題の多くは、こうした教員と学習者の非対称関係から生じる。
某教員がTwitterに手のかかる子どもを【見捨てる】と書いて炎上したのは、非対称な関係で学習者を【能力無し】と一方的に烙印押しするのと同じだから。だからといって、【1人も見捨てない】があるべき教員像か、というとそれも違う(矜持としては大切だと思うけど)。
正しくは、学ぶ能力が無いから【見捨てる】ではなくて、教える側に【子どもに見合う指導能力がない】ので対応出来ない、ということ。【見捨てる・見捨てない】は全知全能の神様目線であって、教員が一方的に生殺与奪の権を握るような構図が、面倒な子どもを見捨ててみたり、進度を超える学習を禁止してみたり、奇妙なローカルルールで縛ったり、という暴走を招く。大きすぎる責任を抱え込んで、閉じた関係の中で子どもの学びを殺してしまう。
ひいた目でみれば、学習者と教員とのミスマッチは起こるべくして起こることで、双方がその効用と限界を知っておくのが一番現実的だ。学習者は自分の能力の無さ(と思い込まされている事)に思い悩むよりは、学習手段と単位認定先を相対化して、別を模索するくらいの賢さが必要。それが学習者自身を守ることにもなる。
これは教員のプライドに関わる事だから軽々には言えない事だけど、医療でセカンドオピニオンが普及するのと同じように、学習に関しても手段や判断の相対化はあってしかるべきだし、それが学習者側に求められるサバイバル能力のひとつになるだろう。