学校デジタルデバイドと対峙せよ
ICTの日常化とからんで、我々が最初に認識しておきたいのは、世間のデジタルデバイドで取り残されているのは、子どもや保護者ではなくて、今の学校に他ならないということだ。分かりきった事なのに、これを認めたがらない人が多いのはどうしたものか。
学校デジタルデバイド
教育情報化見本市や成果発表会で見る日本の学校の実践事例発表には、いつも歯がゆい思いをする。残念なことに20年以上何も変わっていない。
児童や生徒にタブレットを扱わせて「こんなに授業が効果的だった」「目の輝きが…」と強調するのはかまわない。だが、紹介される実践の写真をよく見ると、子どもの机上にはタブレットではなく、紙の教科書やノートが堂々と乗っている事が多い。タブレットは特別に与えられるもので、ふだんの学びの道具としては馴染んでいない証拠を堂々と晒しているわけだ。
教員指示のもと、ごく短時間ICT機器を扱わせて教育効果云々を問うのは、いきなり補助輪付き自転車で試走させて「歩くより時間がかかるじゃないか」とか言っているのと同じで、傍目からすれば滑稽に見える。当事者は誰も補助輪無しで走れる自転車のスピードを想定しないから、補助輪付きレベルの事象に拘泥されてしまう。学校はデジタルデバイドで取り残された側にいることすら十分認識出来ていない。
学校/家庭間の情報ギャップ
問題として深刻なのは、子ども達は同じような情報機器を日常生活で使いまくっているということだ。したがって、家庭生活で扱う情報量は、紙中心の学校のそれと比べれば圧倒的に多い(質は別として)。学校自身は、デジタルデバイドで取り残されている事すら気付いていないので、周囲に遍在するはずの情報量の多さとその重要性を認識し得ない。これが学校/家庭間の情報ギャップである。
デジタルデバイドの正当化
それでも、学校は世間に特別な価値を提供している事を自負したい。今の日本の学校はいわば【禅寺修行モデル】なので、ICTの良いインパクトを過小評価し、一方で悪影響や脅威を煽って、学習からICTをわざわざ切り離そうとする。何にでもパワフルに利用出来てしまうICTを、教員側で過剰に管理・統制し、子どもや保護者にわざわざ不便を強いることでデジタルデバイドを正当化し、教育としての体面を保とうとする。
学校デジタルデバイド解消が必須
学校デジタルデバイドをそのまま放置すれば、学校は社会から隔絶された【禅寺修行モデル】としてより先鋭化するだろう(精神修養には効果があるかもしれないが)。
新学習指導要領にもある通り「実生活で生きて働く知識技能」を求めるのであれば、これまで延々続けてきた【ふだんICTを使わない授業で、ICTを短時間扱わせる】ままごとのような枠組みを捨て、むしろ、授業よりも先に学校生活全般の情報環境・利活用を子どもや保護者の日常利用レベルにまで引上げる必要がある。私がつねづね「授業より先に学校全般で利用するWi-Fi・メッセンジャー・メール・クラウドサービスを充実させろ」というのは、そういう意図があっての主張だ。
授業の教育効果を問うのはかまわないが、せめて、学校生活全般での利活用レベルを引揚げてデジタルデバイドを解消し、補助輪が取れて人並みに自転車で走れるようになった後で議論して欲しい。補助輪レベルの議論はもう勘弁なのだ。