ICTの日常化とは

前記事では、新学習指導要領の元になった2017年12月中央教育審議会答申で「ICTの日常化」が強調されている事を述べた。ただし、学校でのICTの日常化というのは、なかなかイメージしにくいものだ。では、何をどこまで使えば日常化していると言えるのか?関係者は次の質問について答えていただきたい。現在の学校での活用頻度はどの程度だろうか。


  • A~B段階は、教師中心の教具的な利用で、電子黒板や実物投影機(OHC: Over Head Camera)を扱うシーンを想定している
  • C段階は、学習者側の情報端末利用が前提だが、授業中に教師側の指示通り操作させる
  • D段階は、授業中に教師が具体的な指示をしなくても、学習者側が手元で情報端末を自在に扱う(写真は授業中に板書のメモ撮影をしている)
  • E段階は、授業外の特別活動や放課後でも、学習者側の必要に応じて自由に情報端末が活用される(写真は放課後のメディアセンターのPCで宿題に取り組んでいる)

下図は、2017年12月に愛される学校づくり研究会の会員を対象にアンケートしてみた結果である。B段階の教師中心の教具的利用レベルが多い一方、学習者1人1台の情報端末利用はまだ少なく、しかも、教師の指示通り操作させる方法が主だ。学習者の自由が保証された使い方はまだまだ一般的ではない。

私の主張からすれば、「ICTの日常化」とみなせるのはD~E段階に限られる。日常化というからには、最低でも次の条件を満たさねばならない。

  • 学習者用情報端末1人1台の配備
    教師側教具だけがICT化されても、学習者が受け取る情報手段が旧来のままのノート書き取りでは、授業中に流通する情報量は極端に増加しない
  • 学習者に機器操作や活用シーンを委ねること
    教師による逐次操作指示を前提にすれば、教師側負担が大きくなり、トラブルで授業が停滞しやすくなる。

C段階はモデル校の研究授業でよく見られるが、「子どもは操作に慣れないのだから、教師が事細かに指示しなければならない」という制御的なロジックでは、持続的な活用には耐えられない。学習者側の反応や操作を抑止すれば、授業はひどくつまらないものになってしまい、同僚の賛同や支持も得られないという悪循環に陥る。だから、たいがいの学校はC段階より先に進めない。

こう書くと「放任しろっていうのか」と批判を受けるのだが、自分の考えはむしろ逆だ。教師は授業を導く役割に徹するべきだ。学習者の手元にある機器操作は学習者に任せてしまったほうが良い。何もかも教師が背負い込むのは正しいやり方ではない(加えて言うなら、ICT支援員が教室を走り回るのも良くない)。

D段階以上の事例では、教師指示はだいたい素っ気ないのだけれど、(たとえば「今日の課題はメールで指示したから、ワークに取りかかろう」とか、「自分の考えをまとめて、ノート共有しよう」とか)学習者側も慣れているので各自のやりかたで対応する(タブレットペン書きもあれば、キーボード入力もあれば、手書きを写真にとる場合もある)。要するに課題が達成出来れば良いのだから、途中はそれぞれに任せてよいというわけだ。

しかるに、ICTの日常化とは次の3点にまとめることができる。

  • 教師が特定教科・授業のピンポイントで使わせるのではなく、学習者が授業外も含め、あらゆる場面での活用選択肢をもつことである。
  • 教師が短時間の単純操作を許可・指示するではなく、学習者が持続的な利用機会を通じて、高度で複雑な活用を行うことである。
  • 教師が従来と同様の情報量を一方的に与えるのではなく、学習者が従来の数倍の情報を自ら活用する機会を得ることである。

具体的な活用パターンは次の記事で述べよう。

つぎへ続く

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