学校印刷機の技術革新

Twitterでたまたま拾ったネタですが、学校の先生方にICT利活用の説得をするには、わりとイケそうな話にまとまったので、ブログ化しました。

中学教員だった父親は夜中までよくガリ切り(右上)していた。1960~80年代はまさに謄写版印刷技術の革新期そのもの。

SAMRデジタルシフトのモデルとして印刷技術の革新は説得材料になるかも。今みたいに手軽にバカスカ刷り物作れるようになったのは、1980年代後半からなんだよね。承前の謄写版+ローラー手刷りでは1分間に1枚がせいぜいで、直接インクを扱うから手も汚れるし、大変だった。

謄写版の原紙は蝋引きの紙。ヤスリの上に置いて鉄筆で書くことで蝋を削り、印刷時にはインクが浸透するという仕掛け。ヤスリと鉄筆なので、作業中はガリガリ音がする。原紙の作成=ガリ切りとはそういう意味。

当時は手元に原稿があってもコピーみたいに複製は簡単に出来ない。謄写版の筆耕を扱う会社もたくさんあったし、父親も大学生時代はガリ切りのバイトしていたと言っていた。細い鉄筆に合った書体があって、これを覚えると結構稼げたらしい。たしかに父親が作ったガリ版(謄写版)は今見ても緻密で美しい。

謄写版特有の書体 http://www.gei-shin.co.jp/comunity/03/06_2.html より

で、ここからは自分の経験の話。

小4(1977)の頃、新聞クラブに入って最初に手渡されたのがボールペン原紙。ガリ切りにはヤスリ台と鉄筆が必要だけど、これは一般的なボールペンで直に書けるのが画期的。書くと青いカスが手にくっつく。間違った時の修正液のニオイも強烈だった。

ボールペン原紙 http://blog.livedoor.jp/yatanavi/archives/52943689.html より

ところが翌年(1978)には、薄方眼が入った白い紙に普通の筆記具で原稿を作るという。謄写ファックス装置で原紙が作れるようになったのだ。回転ドラムに原稿とTP原紙を巻き付けて、カタカタと10分程機械を回すと原紙が完成するという仕掛け。こいつも焼き付けで原紙を作るので、部屋が異臭で大変な事になるという代物。

1960年代後半から自動印刷機が普及する1990年代までは、謄写印刷機が活躍した。機械とはいっても原紙のローラー貼り付けと廃棄、インク調節は全部手動、手回し印刷が普通。インクムラや目詰まりが頻繁で、印刷は手が汚れる「汚れ仕事」そのものだった。

手回し謄写印刷機 https://digital.jbmia.or.jp/exd/exdd03..html より

当時、印刷機械は役所や学校など限られた所にしかない特別なもの。小学生の自分にとっての印刷室は、まさに禁断の空間。子どもの新聞クラブとはいえ、そんな空間に堂々と出入りして、資料複製を許された特別な役割にはワクワクさせられたものだ。 【注1】

今は押しも押されぬ大メーカーの理想科学が年賀状印刷のプリントゴッコを発売したのが1977年。この仕掛けを応用した自動印刷機が一体型で出てきたのが1984年。1990年代にかけてあっという間に全国の学校を席巻した。今やどんな田舎の学校でも複数の自動印刷機がある。

自動印刷機が凄いのは、ボタン1つで手を汚さず印刷完了すること。デジタル化が進みコピー機とほとんど使用感が変わらなくなった。50年以上かかって、資料複製がこんなに手軽に簡単になった、ということ。我々があたりまえに使っている印刷機も、実は技術革新の賜であるという証拠なのです。

我々は技術革新の成果を当たり前に使う

謄写版印刷が今の自動印刷になったことで、学校の刷り物の量はかなり増大しているんです(統計で確かめた訳じゃないけど)。 自動化はチートだ、手抜きだ、と仰る先生方、是非手刷りのローラー印刷で日々の業務をこなしてみたらいかがでしょう? (結局、これが言いたかった)

ICT利活用の話に戻れば、3人に1台までは手刷り印刷の時代の話、GIGAスクールの1人1台体制は、自動印刷機を手軽に当たり前に使うレベル。 ICT利活用に関して、我々はまだ手刷り印刷のレベルしか経験していないのです。是非これを忘れないでいただきたい。


注1:だから、教室に印刷機を持ち込んだフレネ教育の話にビビッと反応したのは言うまでもないのです。複製する、他の人とシェアする、といった活動が「学びの社会化」として重要なプロセスであることは、またどこかでまとめたいですね。

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