情報モラルの方針と指導実践との乖離

デジタルシティズンシップと情報モラルはどこがどう違うのか
実によく質問されます。

事実、方針や領域はかなり重複する部分がありますが、ひとつはっきり言えるのは、情報モラルには、定義・方針・ロジックレイヤと指導実践レイヤとの間に著しい分断・乖離があるということです。

これは文科省の政策文書界隈ではしばしば見られることで、現実の学校での指導実態を批判しても、政策文書的には間違ってないのだから、学校現場や実践が悪いのだ、と切り離されることがままあります。政策立案はイノセントで全部現場が悪い。果たしてそうでしょうか?

例えば欧州評議会のDC定義「デジタル技術の利用を通じて、社会に積極的に関与し参加する能力」は、情報モラルの「情報社会に参画する態度」に含まれているのだから、情報モラルが上位概念だ、みたいな指摘はよく受けます。でも、学校実践で実際のデジタルメディアやSNSを用いた社会参画に関わるテーマはまず見る事がありません。それは従来の学校・授業の指導ロジックとは相容れないからです。

19世紀来の学校公教育制度は、当時の貧弱なメディアや教育リソースを背景に最小限のコストでいかに効率良く知識伝達を行うか、を主眼に組み立てられました。だから、基本的には教える側の都合が最優先される枠組みなのです。一斉指導は教員が場面や文脈を制御して学習者を追従させるスタイルです。教員が設定した枠外は逸脱・免責とみなされます。授業成立が第一条件であれば、逸脱を起こすテーマは扱いにくい。自在なコミュニケーションで拡散的な活動を促せば、教員統制や一斉授業の枠組みは容易に壊れてしまいます。

たとえ学校公式IDであっても、そもそもSNS・チャット・メールを児童生徒に扱わせることに大半の学校は否定的です。情報モラルの学習目標が掲げてあっても授業でその場限りのデジタルコミュニケーションを体験させるほどの余裕も必要性も認識していません。一般的な一斉授業にそんなものは不要だからです。
こうして、情報モラル、特にネットのコミュニケーションは【校外の厄介事】扱いとされ、数年に一度体育館に全児童生徒を集めて30分怖がらせるようなホラー営業を外部講師に依頼して「やったことにする」のが横行する訳です。

社会的要請として情報モラルが必要とされ、立派なスローガンは作られても、学校が19世紀来の指導スタイルにこだわるがゆえに、学校日常のデジタル化は全く進まず、アリバイ的情報モラルだけが残ってしまった。情報モラルに対する失望や批判は、そういう構造や実態そのものを踏まえたものだと言えます。
情報モラル方針作りました、指導案作りました、研究授業で論文実績作りました。実に正統なやりかたです。ただ、それらが児童生徒・保護者当事者に受容され、妥当と評価されているのか、は全く別です。文科省以外の省庁が揃ってデジタルシティズンシップに舵を切ったのはその帰結を示すものでしょう。

方針は間違ってないから、どっちが上位概念だから、等々、部分闘争でマウント取っても意味がない。いずれにせよ、実際に普通の学校において、多くの児童生徒や保護者に必要とされる学びが生起しないようなポンコツな枠組みはダメだと、はっきり言われているようなものです。

そのような意味で、デジタルシティズンシップは次世代の学びの基盤の一部であると私は考えます。将来の学びに19世紀的な一斉授業の形態が残り続けるのか、といえば、おそらくそのウェイトは著しく小さくなるでしょう。学校自体も形を変えるかもしれない。でも、デジタルシティズンシップは、情報社会のライフスキルとし、てしばらくは重要な位置を占めることになる。
だからこそ、既存の学校教育に組み込まれすっかり存在感を失ってしまった「情報モラル」のままでは、大胆に枠組みを変えられない。これは看板の架け替えでも、小さな研究領域のパイの奪い合いでもないのです。取り組みや概念を刷新するくらいの意気込みと脱構築が必要なのですよ。

(この記事は2022/11/7頃のTwitterおよびFacebookへの投稿をもとにしたものです)

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