授業の主役はもはや教員ではない
教具的ICT利活用といえば、例えば、タブレットから課題回収して電子黒板に集約する授業支援システムを使う事ですが、それ以上に授業全体を掌握し、伝達・問答・評価を完璧にこなさねばなりません。授業の脚本・監督・主役に加えてトラブル対処まで。過負担の授業を日常的にこなすのは困難です。
トラブルに見舞われて授業ストップしたくないから、教具的ICT利活用はどんどん短時間のスポットになり、児童生徒に任せる作業も反応レベルの単純なものになります。教員が教壇上で主役を張っている時、子どもたちの手は膝の上、タブレットは操作ロックされます。使える時間はわずか数分。
教員が授業の全てを掌握しなければいけないから、ICTとか余計なモノ持ち込まないでくれ、というのは現場の正直な気持ちでしょう。たしかに、教員は多くを抱え過ぎです。何かを手放さなければなりません。しかし、いま手放すべきものはICTではなく、実は、授業舞台の主役のほうかもしれません。
本来、授業とは学習者に物事を効率良く習得させる仕掛けです。かつて資源の貧しい時代は、教員が多人数に板書と語りで伝える事が最も効率的な方法でした。しかし今は違います。周囲にはメディアと情報が溢れているのに、学校の中だけが資源欠乏状態で、相変わらず教員が授業の主役を続けています。
物事の効率的習得には、学習者側の個性や程度に応じた1対1の調整が必要ですが、主役を張っておいて(一斉指導で)40人のクラスでそれを実現するのは極めて困難です。どうしても吹きこぼれと落ちこぼれを生んでしまいます。それでも、まだ一斉指導にこだわり続けますか?
教員が授業の主役を続けるために、学ぶ側には不自由な資源欠乏状態をわざわざ作り、ICTも含めて全部を管理統制するのが良いのか、それとも、学ぶ側に主役を委ねて、現代日常生活の豊富なメディアと情報量を前提にした環境で、個別に応じた学習を促すのか、実はそこが問われています。
誤解されやすいのですが、教員が授業の主役を降りる事は無責任な放任主義ではありません。未熟な学習者は時に困難にも直面しますし、目的を見失うこともあります。子どもの状況を俯瞰的に把握し、診断と処方が行えるのは生身の教員だけです。教員が第一に担うべき役割はまずそこにあります。
一斉指導+教具的ICT利活用は教員負荷が高く、教室での学習の非効率を何ら改善しないモデルです。20年以上一斉指導モデルにこだわった結果、日本の教育ICT利活用は停滞し、諸外国からも大きな遅れをとりました。手垢にまみれたこのモデルを一度忘れなければ、前進はありません。