09 メディアが現実を構成する
「メディアが現実を構成する」この衝撃的な言葉は、メディアの影響力の強さを端的に表しています。
この言葉は、オンタリオ州教育省(1989 FCT訳 1992)によるメディアリテラシーの基礎概念のひとつです。人々が現実であると思っている事柄の多くは、実はメディアから得られたものであり、なおかつ、メディアは現実そのままの描写ではなく、特定の筋書き(意図や結論)をもって、あらかじめ編集・脚色されたものである、ということを述べています。
- 学校現場の地道な仕事が、なぜ世間には認められにくいのか。
- なぜ教育批判や学校不信がこれまでに盛り上がりをみせるのか。
学校関係者にとってみると、真面目に日々の仕事をこなしているのに、これほどに(いわれのない)批判を受けるのは理不尽な事に違いありません。しかし、学校関係者の抱く「学校の現実」と、学校外部の一般社会人が抱く「学校の現実」とは、もともと大きな違いがあるということに、私たちは気づかねばなりません。
学校関係者にとっての「学校の現実」とは、職場で経験するリアリティそのものです。たいがいは同じ日常の繰り返しが季節とともに淡々と営まれ、一年が過ぎてゆきます。いうまでもなく、教育とはドラマティックなものではなく、平凡な日々の積み重ねによって達成されるものだからです。右に左に大騒ぎするような出来事は滅多に起こるものではありません。
しかし、学校外部の一般社会人にとって「学校の現実」とは、ニュース報道で連日扱われる教育問題、教員の不祥事、事件や事故といった「目を惹くような非日常的な出来事」の集積です。滅多に起こらないような出来事も全国から集めれば、毎日のように各地で起こっているかのような印象を視聴者に与えます。つまり、教育に対する危機感や荒廃論のたぐいは、学校の非日常ばかりが濃縮されたもので、なかばマスメディアによってねつ造されたものと言えます。
これらを簡単に表すと次の通りになります。
- 学校関係者の「学校の現実」 = 学校現場で起こっていること > マスメディア報道
- 一般社会人の「学校の現実」 = マスメディア報道 > 学校現場で起こっていること
「現実」とは、受け取る情報チャネルの情報量の差によって実質決まるわけです。
このように考えれば、一般の社会人に対して、マスメディア報道に勝る情報を学校側が提供すれば、「学校の現実」が正しく理解され、理不尽な教育批判や学校不信を相当減らすことができるということになります。
残念ながら大半の人は、もはや、絶大な影響力をもつマスメディアに対抗できる方法など、自分たちは持っていない、あるいは、そんな事はもはや教職員の仕事ではない、早々と思い込んでしまいます。しかし、この考えは正しくありません。学校広報とは、学校のステークホルダに対して「学校の現実」を伝えるためのパワフルな手段であり、なおかつ、現場の教職員であるからこそ、誠実で説得力のある現実の情報を伝えることができます。
なぜ、そのように考えることが可能なのか、次回以降の記事で詳しく述べましょう。
[参考文献]