学校には果たすべき役割がある

こどもは勝手にICTを覚えるから
学校では扱わなくていい、のか?

子どもとICTスキルについて一般に言われているのは、こんなことだろうか。

  1. 子どもの適応力は高く、大人が積極的に教えなくても試行錯誤で覚えてしまう。
  2. 興味対象に対する探求意欲が高く、しばしば大人顔負けの知識スキルを持つ。
  3. 子ども同士で盛んに情報交換し、世代内やグループ内の特徴的な流行を持ち、トピックは頻繁に入れ変わる。

いずれも子ども達の旺盛なICTスキル習得の一面を捉えたものだが、日本の学校教育ではこれらを逆手にとった捉え方が定着しているようだ。一言で表わせば、それは【ICTスキルに対する蔑視と学習事象からの排除】である。

きわめて明解なのは、子どもが日常生活で使うICTは勉学の邪魔だ、とみなされていることで、携帯電話やスマホの所持利用規制傾向はその典型だ。1. のように、ICTは子どもが勝手に覚えてくるもので、勉強に関係のない「くだらないもの」だから、学校は関わる必要がないというロジックである。

 

だが、事態は結構深刻だ。たまに学校でコンピュータやインターネットを使った授業をすると気付くが、児童生徒間のICTスキル格差は半端なく大きい。舞田氏のPISA2009のICTスキル調査分析コラムを見ても二極化傾向が顕著だ。特に経済的に恵まれない層の問題はスキル不足が格差の固定に繋がる。

将来社会で要求される知識スキルのボトムラインを保証するのが公教育の役割であり、そのために、情報系の教科や内容が指導要領に組み込まれているはずだが、実態としては、日本の学校はICTスキルの底上げに十分貢献できていないことになる。この状況は公教育の責任放棄に等しい。

それでも学校を見捨てられない理由

一般的な家庭の情報環境と比較すれば、学校教育の旧態依然とした状況を知るたび絶望的な気分になるが、だからといって、もう学校をあてにするのは無駄だ、という結論にはならない。どんなに教育情報化が遅れて悲惨な状況でも、なお、学校を見捨てられない2つの理由がある。

ひとつは、先に述べたように、公教育として社会的に要求されるICTスキルセットのボトムラインを保証するため。もうひとつは、もっぱら学校にしか果たし得ない教育的社会的意義を付与して、ICTスキルを高度化することにある。特に後者は前者以上に重要だ。

 

ICTスキルセットのコミュニケーション用途には大雑把に分けるとプライベートとパブリックの2通りがある。児童生徒が家庭環境で自然に身に付けるのは、家族や友人を対象としたプライベート(私的)用途のスキルだ。その大半はインフォーマルで、情報消費(娯楽)に費やされる。

表:ICTスキルセットのコミュニケーション用途

用途 特徴 様式
プライベート 自然発生的・情報消費中心 インフォーマル(明確な様式を持たない)
パブリック 学校で促進・知的創造や社会的アピール フォーマル(TPOに応じた様式を持つ)

一方、学校や職場で扱われるのはもっぱらパブリック(公的)用途のスキルだ。フォーマル(TPOに応じた様式をもつ)で、知的創造や社会的アピールに用いられる。子どもにパブリックな用途を与えて能力向上を促すのは、具体的に社会との接点を持つ機関に限られる。その筆頭は学校である。

別に、今なら学校に頼らずとも個人で趣味作品をウェブに公開したり、SNSに意見を書き込んだり出来るが、社会的経験の乏しい子どもがいきなりネットでアクションを起こすのはリスクが大きい。例えば、いわゆるバカッター問題は、発信側にプライベート・パブリックの区別がないからこそ起こる。

学校に期待されるのは、まず、フォーマルな(様式の伴った)ICTのパブリック(公的)用途を積極的に与えることだ。子どもは一個人ではなく学校の一員として、プレゼン・発表、学校公式ブログへの記事投稿、作品の出版・公開の機会を得る。社会的立場とともに相応の責任の伴う経験をする。当然ながら、学校名を冠して外部に発信される内容だから、監督側のチェックも入るので、無茶なものがいきなり流出する危険は少ない。

例えば、各地の小学校を中心に展開されている「学校子どもブログ活動」は、管理職と児童が同じタイムラインに記事投稿する。子ども側には学校広報の役割を負った使命感と緊張感がある。先生だけが読む作文とは違い、様々な人々を思い浮かべながら文章を作る。これこそICTを通じた学習の社会化だ。

知識理解から知的創造プロセスへの
シフトが求められている

あわせて学校で促すべきは、情報消費(娯楽・知識理解)に偏った態勢から、知的創造へのシフトを図ることだ。知的創造とは、ネ申エクセル帳票を作ったり、パワーポイントのアニメーションに凝ったり、ではない。曖昧なアイデアに具体的な形を与える複雑で困難なプロセスである。

日本の学校ではまだ教員制御のもとでの知識定着にこだわるが、多様なメディアやICTによって知識習得の機会は以前にも増して遍在化している。手元にスマホがあれば従来型の勉強は出来てしまう。「勉学にICTは必要でない」どころか「勉学に学校は必要ない」と言われかねない状況になりつつある。

学校は大人数で場所と時間を共有する贅沢な時間の使い方を考え直さねばならない。教えるべき内容もプロセスも、教員に求められるスキルセットも変わる。巷でアクティブ・ラーニングと騒がれているものは、表面的技法ではなく、実は、教育と学校のありかたそのものなのである。

 

学校は知識習得以上の付加価値を求めないと、早晩無用の烙印を押されるだろう。繰り返すが、学校にはなお担うべき役割があるが、それは学校が時代の要請に合わせて自ら変わらねば得られないものでもある、ということだ。

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