学習者端末をデジタル教科書というな
一斉指導の提示教材文脈で、電子黒板と学習者版デジタル教科書の活用を考えている人は、学習者側の情報端末の議論に入ってこないで欲しい(ちなみに筆者の学習者端末に対する基本的な考えはこちら)。
何度でも繰り返すけれど、一斉指導前提である限り、学習者は手元で余計な事をするし、場面統制しようと頑張るほど教師負担は増える。一斉指導と学習者側ICT利活用は相性が悪い。
一斉指導の基本は統制と情報提示。教える側が学習文脈と情報量で圧倒しないと学習者は統制出来ないから、仮に、教員の意図する統制を成立させることが授業の主目的なら、学習者側に手元情報を与える事は考えなくて良い。極端な事を言えば教科書さえ必要ない。
学校関係者は一斉指導と教科書にこだわるが、一斉指導は過去メディア環境が貧弱であった時代だからこそ、最大の効率と効果を発揮し得たスタイルだ、という事は忘れられがちだ。教員側に圧倒的な情報があるからこそ、学習者は教員に都合を合わせ、受け身の退屈と屈辱と忍耐を引き受けても学ぶ価値があった。さて、今はどうだろう?
学習材が遍在化した現代では、情報獲得自体を学校の一斉指導に頼る必要がない。学習者側に動機付けと適切なガイダンスさえあれば、自ら獲得する機会はいくらでもある。学習者側の情報端末はそのための手段なのだから、学習者自身がある程度自律的に操ってこそ意味がある。
一斉指導の授業を前提にしてしまうと、すべての話があべこべになる。教員側が「一方的に正統な情報を与え、場面統制を完遂する」という授業の虚構を成立させるために、学習者が授業以外で得た知識は正しくないと恫喝され(掛算問題なんかその典型だ)、さらに、スマホを持ち込み禁止にしてでも、情報が「疎」の状態を教室に作ろうとする。いくらでも情報が引き出せる端末をわざわざネットから切り離し、やたらとファイルサイズが大きくて、動作も遅いデジタル教科書コンテンツを全員同時に同じように開かせようとする。
一斉指導で場面統制したい教員側にとって「学習者が手元で余計な事をする」は許しがたい行為だが、学習者にとってはいい迷惑だ。(目的は何であれ)学習者情報端末は学習者の能動性を引き出すトリガーになる。「自分が気になった事を好きなように学べる」ことこそが最大のメリットなのだから。「皆と同じように同じ事」をさせようと統制を強めれば、教員は余計にしんどくなる。
教育のゴールとは、あくまで、学習者個人に最適な教育的経験を提供する事だ。一斉指導もデジタル教科書もその一選択肢に過ぎない。学習者側の情報端末は現代社会に相応しい多様な情報と手段をもたらすだろう。
日本は効率の悪い一斉指導でのICT活用にこだわりすぎて、世界から20年も遅れをとってしまった。時代遅れの一斉指導と教科書中心主義にこだわれば、後世我々は学習者端末のみならず、教育自体を放棄した、と批判されるに違いない。