学校的価値観で何が悪い

「学校的価値観の積極的肯定」とは、学校で普段から児童生徒に教え説き、推奨する価値観や行いを、学校自体の活動にもまた適用し、社会的に後押しするもの。i-learn.jpや全日本小学校ホームページ大賞(J-KIDS大賞)を支えるコア・コンセプトのひとつ。

よき学校的価値観は堅持されるべきであり、社会もまたこれをサポートするのが健全な関係だ、と筆者は考える。

学校的価値観が蔓延した学校化社会は、現代社会の病理とまで言われているから、これをストレートに書くと、身も蓋もないと言われそうだし、一部の社会学者からは嘲笑されそうだ。だが、先に反論しておくと、すでに社会の一機能を担っている学校を、ことさら悪者にして批判したところで、問題が解消する訳ではない。外から嗤っているだけでは、世の中は変わらないのである。

よき学校的価値観とは、たとえば、小さな努力の積み重ねの重要性であったり、フェアネス(公平・公正)の尊重であったり、公共に貢献する姿勢であったりする。
これらを児童生徒に教え説く教員もまた、学校的価値観を信念として受け継いでいる。したがって、児童生徒の日々の努力や、目立たない行いを見届けて褒めることを良しとするがごとく、自らの日々の行いもまた、あえて目立とうとしなくても、世間から正当に認められたい(認められるべきだ)と考えている。現実的か非現実的かは別にして、この考えはいたって自然なことだ。

問題は、教員の「日々の努力や目立たない行い」をきちんと見届け、褒めるような仕掛けが、現実には少ないということだ。理解のある管理職に恵まれれば、話は別だが。
一般に世間から評価されるには、研究授業やコンテストや著述のため、自分自身を目立たせるために、特別な労力を費やさねばならない。しかし、それでは、周囲や同僚からは、児童生徒に振り向けるべき努力を惜しんでいる、と思われてしまう。こうして、価値観と現実とのギャップが、多くの価値ある地道な取組みを埋没させ、多くの教員に苦悩を与えてきた。

筆者が思いついたのは、実に単純なことだ。学校での正当な日々の小さな努力を、出来るだけ公正な方法で記録・蓄積・公表する仕掛けを作る、ということである。

たとえば、学校ウェブサイトの活動とは、まず保護者や地域に対して行われるべきもので、保護者や地域にその価値を認められてこそ、はじめて意味を持つものだ。
したがって、保護者や地域が学校に対して求める「地味でベタな情報」の蓄積が重要なのだが、従来の形態のコンテストでは、どうしても見た目の派手さや技巧に目を奪われてしまうので、この点をきちんとフォローできなかったのである。

先にも述べたように、単に目立とうとするだけの努力は、学校が求める本当の価値をゆがめてしまう。筆者が実現したかったのは、それぞれの学校が、保護者や地域のための情報発信活動を、真剣かつ地道に行っていれば、それが何らかの形で報われ、評価されるような形であった。

たとえば、学校ウェブサイトの更新率算出にその考えが反映されている。更新率は、過去90日間の更新実績日数が計算されるのだが、分母の90日とは、非常に微妙なサジ加減である(実際にはMLで何度も議論して決めたのだが)。
1年や半年では、どんなに条件が整っていても途中で息切れしてしまうし、かといって逆に1ヶ月程度なら、サイト管理者が個人的に無理しても、なんとか持ちこたえられてしまう。90日がベースなら、本気で地道な取り組みを続けていれば、自然に数値は向上してくるし、途中トラブルが生じてイレギュラーな対応が数日あっても、極端に率が落ちることはない。

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