14 教職員の倫理と学校広報

学校広報の目的が正しく理解される限り、教職員の職業倫理との間に矛盾は生じません。
日々の誠実な積み重ねが基礎にあるからこそ、本来の教育成果を社会に正しく伝え、認知してもらう活動が重要な意味を持ちます。

いろいろなところでお話しする機会があるたび、学校広報とは古くて新しい言葉です、と私は述べています。解説の冒頭でも述べたように、広報とはステークホルダとの良好な関係維持に主眼があります。しかしながら、日本における「広報」の言葉には、すでにステレオタイプのイメージが定着しているので、広報=宣伝と早合点されることで、「そのようなものを学校で扱うことはナンセンスだ」という批判がかならず起こります。

批判と誤解の最たるものは、「学校選択制でもないのに、広報をしたところで児童生徒が増える訳ではない」というものですが、これに対する答えは、また別の機会に譲りましょう。

さて、教職員の方が広報と聞いたときに心にひっかかりを感じるとすれば、それは学校教職員の職業倫理と矛盾しないのか、という懸念に他なりません。
そもそも、学校は知識・技能とともに、社会規範と勤勉・努力の価値を教える場所と認識されているので、社会から求められる職業倫理には、より厳しいものがあります。かつて、教職は聖職と呼ばれたように、誠実であること、また、子ども達とのふれあいをまず第一に考えることについて、特に重きが置かれる傾向があるでしょう。

そのように考えると、これら学校のもつ価値観や職業倫理と、世間で一般的に認知されている広報(=宣伝)の活動とは、決定的に相容れないように見えます。
たとえば、民間企業広報の大きな位置づけは、購買増を目的とした販売促進活動(宣伝)にあるので、マスメディア広告には多額の費用がかけられ、多くの刺激・脚色・技巧が巧妙にちりばめられます。対象のマス(大衆)の興味関心を惹くためには、商材そのものよりも、商材に対するイメージ形成が重要な場合もあります(ビールや缶コーヒーなど差別化が困難な商品、いわゆるパリティ商品が該当します)。
こういったもっぱら「売るための活動」は、見方を変えれば、金で虚構の世界を作ることであり、過剰な粉飾や脚色がまかり通る世界です。確かに、これをそのまま学校に持ち込んだのでは、自らが追求する価値観を否定する、自己矛盾が生じてしまいます。
短期的な販売促進(生徒募集)を狙って、パンフレットの中だけの虚構の学校イメージを作り上げたのでは、中長期的にはステークホルダを欺くことになり、いずれ、期待は幻滅へと変わってしまうでしょう。学校とステークホルダは、数年単位で長くつきあう関係なので、売り逃げは絶対に許されません。

何度も強調しますが、学校広報の目的はステークホルダとの良好な関係の構築と安定的維持にあります。ここで理解すべき重要なポイントは次の3点です。

1点目は、どんなに世の中が変わろうと、ステークホルダが学校に求め、かつ、学校自身が追求する基本的な価値観・社会規範・職業倫理には大きな矛盾は生じないということです。学校の社会的な位置づけを考えれば、これは当然のことです。個別の事案に対する批判はさておき、ステークホルダが学校に対して求める価値観は、きわめて保守的な部類に入ります。
それでもなお、学校がしばしば批判の対象になるのは、学校と社会との価値観が相容れないからではなく、ステークホルダの安心・信頼を裏付けるのに十分な情報を学校側から提供していないので、妙な誤解や憶測を呼びやすい状況になっているからです。

2点目は、学校広報を行うからといって、民間企業の宣伝と同じ戦略を採る必要はないし、むしろ、そうすべきではないということです。ステークホルダはマスメディア広告のような刺激を求めているのではなく、日常的な安心や信頼を必要としているので、一時的に飾って見せることより、継続的にベタな情報を出し続けることの方が重要です。これは学校が本来追求する価値観とも合致するでしょう。

3点目は、継続的にベタな情報を出し続けるには、そもそも本来の教育活動がしっかり成立しており、学校が結果に自信を持っていなければならない、ということです。一時的な宣伝ならいくらでもごまかしが利きますが、毎日ごまかしを続ける事はできないからです。つまり、誠実で地道な積み重ねがあるからこそ、毎日のベタな情報にそれらが反映され、裏付け(証拠:エビデンス)としての価値を持つのだと言えます。

つまり、学校広報の活動をするからといって、教職員の職業倫理を曲げる必要はないし、価値観を大幅に変えることもありません。これまでとは唯一違うのは、学校の正当な努力や成果をより広く知ってもらい、理解してもらおうとする意識を、明確にもつかどうか、ということなのです。

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